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アメリカ留学から帰ってきて思う 〜日本の大学教育と就活について〜

 

こんにちは。

 

三ヶ月という短い間だったけど、アメリカでの留学を終えていくつか思うことがあったから、一旦留学記を中断して忘れないうちに書き留めておこうと思う。

 

噂には聞いていたけど日本に帰ってきて、”PAD”という病気に僕もかかってしまった。

 

PADと言うのは"Post America Depression"のことで、アメリカの大学と日本の大学とのあまりに大きな違いから、日本に失望して沈み込んでしまうというものだそう。

 

これは悪い言い方をすれば"アメリカかぶれ"だと思うんだけど、かぶれるのも無理がないくらいに向こうのシステムはしっかりしていた。

 

今回は下記の3つ 

①学生の意欲

②教育の質

③教授の研究環境

これらがどのように影響しあっているか説明する。 

 

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まず①学生の意欲について。

日本はどちらかと言えば"自分で勉強するのが大事"という認識が強い、これは確かにそのとおりだと思う。結局自分自身が興味を持って勉強するのが一番良いに決まってる。

だけど、殆どの日本の大学と言うのは無知な高校時代に選んだ学部が4年間つきまとうというシステムになっている、これがあまり良くない。

 

つまり日本では余程強い意志がない限り、わざわざ学部学科を変えて自分のやりたいことをやるということは不可能だ。その点、アメリカでは入学時には殆ど何も決まっておらず、入学してから自分自身が主体性を持って勉強していくことが重要であり、日本の大学生とはこの点でモチベーションが全く違うと言える。

 

さらに日本の大学では、ハッキリ言ってしまえば多くの人間が就職活動を大学という場所の集大成というか最終関門というか、そういうものだと思っているから、単位を取る以上に自ら勉強するということのメリットを見出しにくい、というのが実情だと思う。

多くの学生が楽な単位取得方法の情報収集に躍起になっているような馬鹿げた環境の中で自ら勉強するというのは不可能に近いように感じる。

 

そして学生の意欲の無さに追い打ちを掛けるのが、日本の大学の授業だと思う。

つまり②教育の質がここで絡んでくる。

 

大学の授業を受けてみて、日本とのあまりの違いに驚いてしまった。

アメリカの授業では意欲ある学生が教授を評価するというシステムがあるため、教授も必死で授業をやっている。

だから授業は非常にわかりやすく面白いし、有意義な内容になっている。

日本でやっているような、スライドを見せつつ、ただ淡々と喋るだけのような授業をすると首が飛んでもおかしくないんじゃないかと思うほど日本の授業との差は大きい。

大学は研究機関であり、それと同時に教育機関でもあるはずなのに、日本ではこの教育機関という部分があまりにも蔑ろにされている気がしてならなかった。

 

だからといって、ただ単にその評価制度を日本に導入して駄目な教育者は淘汰されれば上手くいくかというと、そんなことをしても意味が無いことは分かる。

何故なら、やる気がなく、ほとんど授業を聞かず、単位を楽に取ることしか考えていない学生に評価をさせても全く意味が無いし、それどころか単位を出血大サービスするだけの教授が残り、結果有害ですらあるから。

 

さらにすごいなと思ったのは教授が自分の持っている学生と毎日と言っていいほど活発に議論をしていること。

日本では基本的に自分で研究して自分では解決不可能な困難にぶち当たった場合に他の人を頼るというのが一般的だと思うんだけど(少なくとも自分自身は)、僕のいたところでは、教授が一にも二にもとりあえず何かあったら俺のところに来て話せ、そして議論しよう、そんな雰囲気だった。

 

この違いの要因のひとつはアメリカの大学と日本の大学では、教授の自由に使える時間が違いすぎることであると思う。ただでさえ雑務に追われている日本の教授にこれ以上負担を押し付けると肝心の研究すら破綻してしまいかねない。だからアメリカの教授がやっているように日本の教授が改善すべきだとは一概には言えない。

これが③研究環境に繋がる。

 

 

僕が所属していた学部では毎日数回、アメリカのあちこちの大学から教授を招いてセミナーが開かれていた。そこに教授たちがコーヒー片手に集まりクッキーをかじりながら、とてもリラックスした雰囲気で招聘した教授の発表を聞いていた。

また、発表の途中でいきなり止めて議論を始めたり、終わったあとに発表者の教授に飛び掛かって行って議論を始めたり日本では考えられないような状況だった。

 

教授同士が活発に議論している場面というのを日本では数えるほどしか見たことが無かったのに対して、そこではそれが当たり前のように毎日行われていて、教授が伸び伸びと研究できる環境が与えられていることに本当に驚いた。

この環境を見ると、日本の研究環境と言うのは本当に大丈夫なんだろうか、と不安にならざるを得なかった。

 

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ここまで書いてきて日本の大学教育というのは、これらの問題が相互に絡み合って、手の打ちようがないほど、どうにも出来ないような雁字搦めの状況になっているように思う。

 

でもこれは、決してアメリカ人が優秀で日本人が劣っているという問題ではない。

それよりも、自然と勉強するようになっているアメリカのシステムが日本よりも上手くいっているということだと思う。

 

その証拠に日本人も大学入学試験と就職活動に関しては、アメリカ人もびっくりするほど頑張る。と言うより、それらに全リソースを注ぎ込んでいると言っても過言じゃない。本当にすごい勢いで頑張る。

 

なぜそうするかというと、それが一番合理的だからだと思う。

だからアメリカ人も日本人も合理的な振る舞いをするという点においては、本質的な違いはそれほどないと思う。

 

でもここで問題なのが、現在日本で主流の新しいところに移るとき(入試、就職)に全リソースを注ぎ込むというのが、もうそろそろ合理的では無くなってしまうんじゃないかということ。そうなったときに、じゃあアメリカのようなシステムを作ろう!とすんなり方向転換出来れば良いんだけど、古いやり方が合理的だと信じて疑わないまま、あるとき急にそれが崩れ去っちゃうとこれは結構やばいことになるんじゃないかなと思う。

 

どういうことか説明する 。

今までであれば良い大学に入って優良企業に就職して良い生活を送ろうとすることは、かなり合理的な選択肢だったんだと思う。ゲームを日本国内でやっている限りは、大学受験や就職活動といった"ガラパゴス化されたゲーム"で勝つことに意味があった。

けれど社内公用語を英語にしたり、工場を海外に移転したり、そういったグローバルな時代に、そういう"ガラパゴス化されたゲーム"で勝ったところで、相手は海外の人たちであるから、それにほとんど意味が無い。

それどころかそういうゲームで勝つことを目標にしてきた人間、すなわち入ってから何をするかより、入ることに全リソースを注ぎ込み、入ってからは周りに遅れを取らないように適度に頑張り、組織にぶら下がっているような人間をたくさん抱えた会社は早晩淘汰されて無くなってしまうんじゃないかと思う。

 

もちろん会社も馬鹿じゃないわけで、日本で事業をする上で日本人の日本語を話せるというアドバンテージを、優秀だけど英語しか話せない外国人を雇うメリットが上回った場合、そのような"ガラパゴス化されたゲーム"で勝ってきた人間を採るのは止めにして、もっと合理的な選択をするに違いない。

 

 そうなれば今までは日本人の大学生を採用して、教育して、福利厚生も手厚くて良かった、っていうのを海外を基準に考えなきゃいけなくなる。戦う相手企業が必死に勉強してきたアメリカの優秀な大学生を雇った場合に、こっちだけが悠長に今までどおりやってたら勝てるはずがないから。

具体的に言えば大学受験とか就職活動 なんていう"ガラパゴス化されたゲーム"で勝ってきただけの人間を正社員という訳の分からない特権階級でやっとっておくと早晩会社諸共潰れてしまうはずだ。

 

だから能力に応じてお金を払う必要があるし、そうなるとこのまま行った場合に今の日本の大学生や、その他の日本人を今までどおり雇っておく必要はあるんだろうかと、アメリカの大学生を見て強く考えさせられた。

 

だからといって何もダメな人は弱肉強食でどんどん沙汰されて行けばいいということではない。そういう時代が来た時に必要なのは、スキルを身につけて 再出発できるような制度だと、このラジオを聞けば分かる。

 


【選挙直前座談会】雇用:城 繁幸・やまもといちろう・宮台 真司(荒川 強啓) - YouTube

 

 

そういう時代が来るのはまだ先のことで、俺らが生きている間はまだこの"ガラパゴス化されたゲーム"に勝っていればなんとかなるだろう、そう考えている人はこの國分功一郎の記事をぜひ読んでほしい。

 

【総選挙2014】亡命はなぜ難しいのか?(國分功一郎) |ポリタス 「総選挙」から考える日本の未来

 

 

長くなったけど言いたいことはこれくらい。

 

次回からはまた留学記を書きたいと思う。